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パンパデサラマンカ

52.Pampa de Salamanca

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アルゼンチン、特にパタゴニア地方はその風景に温かみを感じない。
時々見かける建物はコンクリートむきだしの灰色、色がついていてもその色褪せた感じが悲壮感を感じる。
本当になにもない、あるのは原野を流れる強風だけ。

しかし、だからこそ人は優しかった。
道を聞けば親切に教えてくれるし、顔中傷だらけの青年はなにもない原野で追いかけてきたかと思えば手をあげて挨拶して追い抜いていく。南へ行けば行くほどマテ茶の効能も上がった。毎日熱い湯をガソリンスタンドでもらってマテ茶を飲んでいると、南へ行けば行くほど店員が砂糖をどっさり持って来てくれた。メシどころか甘いものは一切口に出来なかったからこの砂糖はオアシスだった。

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原野は台風並みに風が強いため、そのへんにテントを張るのはほぼ不可能。
もちろん人に見つかるとヤバイというのもある。
立ち寄ったレストランの脇にテントを張らせてもらった。
そのレストランには気のいいおじさんがいて、恐る恐るテントを張らせてもらう交渉をした。

「puedo a carpa por aqui?」
「noai problema, adelante」

明るいうちにテントを張り、再び店内に戻った。
レストランにメニューはなかった。

あるのはお勧めの品だけだ。
その日はスパゲティとカリカリのパンがお勧めだという。まるで群馬県のような熱源=小麦粉。
ここでもマテを飲もうと容器とストローを用意していると、すかさずおじさんがポットを用意してくれた。
熱々のマテを大量に飲み、それを風呂代わりとした。

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外はあいかわらず強風がふいていた。しかしサンアントニオほど寒くはない。
レストランは深夜になればなるほど客が押寄せた。
トラックドライバーご用達らしい。

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時々レストランの割れた窓から私のうわさをする声が聞こえた。
「ここは地球の裏側、パンパ・デ・サラマンカ。日本人を泊めないわけがない」
おじさんの声を聞きながらぐっすり安心して眠りについたのだった。

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日の出とともに起きると、おじさんに手紙を書いた。
なんて書いたか忘れてしまったが、レストランの出入り口に手紙を置いた。

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パタゴニア

51.Solamente Correr MiVida

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アルゼンチン、世界最南端めざして過酷な走りが毎日つづく。
いけどもいけどもパンパと呼ばれる大原野が広がっていた。

パタゴニア地方は半端ない強風で半端ない寒さ。9月上旬という南半球の晩冬が烈風に拍車を掛けた。
ブエノスアイレスを発って数日で「サンアントニオ」という町の片隅の廃墟でテントを張った。
かなりの冷え込みのため、インスタントみそ汁に大量の一味唐辛子を投入して寒さをしのいだ。

廃墟に向かう道すがら、ガソリンスタンドで青年に声を掛けられた。
その青年はサッカー青年で、地方サッカーチームのユニフォームを着ていた。きっとそのユニフォームもアルゼンチン国内で着るにはかなり度胸のいることなのだろう、強い口調でサッカー知ってるか?と聞かれた。
私はすかさず(Messi)と答えた。ブエノスアイレスで観戦したパラグアイ戦での彼の雄姿は記憶に新しい。

すると、メッシの名前を聞いた青年は顔色が変わり、
「あいつはダメだ。国を捨てたヤツにアルゼンチンの代表になる資格はない」
と、散々わめいた。
挙句、それが原因で青年と一緒にいた友達とで、突き倒しあいの喧嘩が始まってしまった。

メッシはスペインリーグで活躍するサッカー選手で、それぐらいしか私も知らない。
ホルモンバランスの病気で月給15万円の家庭で月の治療費が9万円に達し心苦しくなった当時10歳前後のメッシは、単独スペインに渡ったらしい。
このことが母国アルゼンチンを捨てたといわれてしまう所以らしい。
モノゴトは熱くなればなるだけ表面上が余計突出してみえてしまう。

なんだかんだやっぱり南米はオッカナイ所だなあと思いながら、キャンプするなら絶対ひと目につかないところを選ぼうと、ロシアで覚えた錬金術とばかりに上下左右の車の流れが途切れたサンアントニオ郊外で目にとまった廃墟にスッと身を隠した。

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夕日が綺麗だったことは覚えている。廃墟のすぐ後ろに流れるルータトレス。
この静寂を破るわけにいかず、息を殺しながら静かにその場にテントを張った。
当初、いまにも崩れそうな廃墟のなかにテント設営、と思ったが廃墟は窓もなく薄気味悪い。小さな個室は元トイレっぽくて鳥の糞も大量にあることだし、軒先にテントを張ることにした。

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自前の米と水、それにインスタントみそ汁。
これだけで豪華な日本食だ。給食センターのおばちゃんに怒られるかもしれない当時の栄養状態。
毎晩テント生活こそその土地をもっとも知るベストなものだと思っている。自然も危険も肌で感じるには地べたに眠るしかない。
太陽と共ニ起きて夕陽まで走りっぱなし。南米で自分の身を守るベストな走りだ。
アスール以外はすべてテント生活だったので気も張り詰めかなりハードな生活だった。

私の予想ではこの日サンアントニオの最低気温はマイナス7℃以下だと思う。温度計をみる余裕はなかった。
スリーシーズン用寝袋では限界があった。かなり冷え込んだおかげで熟睡することなく朝を迎えた。
寝付けないときは決まって寝返りをうつものだが、寝返るといままで足先にあった寝袋の先端が変更するため急激にヒンヤリする。寒いときはなるべく寝返りしないほうがいい。

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そして出発間際、あまりの寒さのためバイクのエンジン掛からず。
何度セルをまわしてもエンジン掛からず。
仕方なく太陽が出るまで待ち、バイク全体に頼りない日光を当てる。氷結がピカピカしていた。

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数十回目の始動でようやくエンジンスタート、白煙。
しばらく走るとエンジンから、けたたましい異音。
オーバークールでエンジンストップしたのは初めてだった。

アクセル空ぶかししてエンジンを無理矢理に暖め、また走り始めたのだった。


ライダーハウスinアルヘンティナ


50.Nueva amigos Casa
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ブエノスアイレスから400キロ地点にAzul(アスール)という町がある。
そこには日本人専用といっても過言ではないライダーハウスがある。
経営しているのはアルゼンチン人、ライダーハウスとはその名の通り旅人ライダーを無料もしくは格安でかくまってくれる屋根付き部屋のことだ。
ウワサでは聞いていたアルゼンチン唯一?のライダーハウスを探すことにした。

アスールの町に着くなり、バラック街をさまようことになる。
あらかじめ調べておいた住所にライダーハウスはなく、5000人規模の小さな町を1時間も迷った挙句、住宅街には違和感のありすぎるシャッターをみつけた。シャッターは日の丸。

ライダーハウスはバイク部品店で、店の軒先にも「ライダーハウス」と日本語で書かれていた。どれほどの親日家なのかすぐにわかった。
ホルヘという男が出迎えてくれた。
彼は幾度となく日本人をライダーハウスに無償で泊めさせている。
税関で世話になったオマール含め、アルゼンチンには優しくカッコイイ大人がおおい。

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ライダーハウスの壁という壁には過去滞在した旅人のメッセージがぎっしり書かれてあり、高い割合で日本人のものが多かった。
そのなかでも友人の名前をみつけた。神奈川のセイジ君だ。

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そのすぐ横に私も自分の名前を書くことにした。
埃っぽい壁を手の腹でゴシゴシ拭いたが、油性マジックのノリはイマイチで簡単になってしまった。
メッセージには凝った言葉も多かったが、私の場合は一泊だったし無心で疲れていたからカッコイイ台詞は用意できなかった。

壁に書かれたメッセージの中に日本人が書いたと思われる数字をみつけた。
『Azul ~ Tokyo =1万5000km』
案外近いなーと思った
私はホルヘにマテが飲みたいというと、彼は新しい容器を用意してくれた。普通であればいま自分が持っている容器に湯を付け足し渡してくるのがアルゼンチン流であり、同じ容器でマテを飲むことがアルゼンチンでは友情を育むキカッケになる。しかしホルヘは新しい容器に湯を足した。潔癖症の日本人のことをよく知っているようだ。

ホルヘは私を事務所に連れて行き、日本のバイク雑誌に自分が掲載されたものをみせてくれた。
なんでもホルヘに世話になった日本人ライダーたちがそれぞれ金を出し合いホルヘを日本に招待したらしい。そのことをホルヘは自慢げに雑誌の記事をみせてくれ「私の心は日本人」といった。とっても素晴らしいことだと思った。
それを聞いたドイツ人も同じようにホルヘをドイツに招待したらしい。
ライダーハウス内には、北海道出身のライダーが日本国内で事故死したことについて、きっとホルヘは一度しか会っていない彼女の慰霊碑をハウス内に祭っていた。ガラスケースに収められた彼女の写真とヘルメット、寄せ書き。
南米に入り疑心暗鬼になっていた私はアルゼンチン国内にある日本人のメモリアルをみて、心の底から彼は信用できると思った。

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部屋にはエゲレス人が先客としていた。国外で同じ日に同じ部屋で眠る、これほど奇跡はない。エゲレス人と二人きりの晩餐。彼はアメリカ大陸を縦断している最中ということだった。
細切れにしたタマネギにシーチキンをまぜたものが主食だ。テーブルに置かれたフランスパンより固い干乾びたパンをかじりながらマテを飲んだ。
部屋にいても暖房器具などなく、白い息が一層地の果てに気持ちを向かわせた。

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ホルヘと会ったのは夜が最後だった。
寝袋に包まるベッドに横たわりながらも、かなりの冷え込みに寝付けなかった私は日の出早々でかけることにした。
エゲレス人を起こさぬよう、バイクを外に出したら、つい一瞬前まで眠っていたエゲレス人が一般的に下品な笑い声、逆をいえば心豊かで

上質なバイク乗りの笑顔で私を見送ってくれた。

アスールというのはスペイン語で「青色」という意味になる。

天気予報は見事にはずれ、朝の空に雨はなかった。
南へ行くほど空は晴れ渡り、アスールという意味を全身で味わった。

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muy buenos suenos

ブエノスアイレスをあとにして

49.Mucho Tengo Dinero

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旅立つ前日、ブエノスアイレス市内でインディヘナの子供たちに声を掛けられた。
年のころは10歳前後だと思う。
南米では我々アジア人は中国人と間違えられる。「チーノ」という名称で呼ばれるのだが、これを気に入らない日本人も多い。隣国の兄弟に偏見を持つのはすごく寂しいことだから私は中国人に間違われてもゼンゼン気にならないし当然怒らない。むしろ声を掛けてきた子供たちとは仲良くしていた。
その背景には世界中の中国人や韓国人に世話になったことがあげられる。

ブエノスアイレスから南へ旅立つ前日も、浅黒いインディヘナの二人組が「おいチーノ、いいものあるよ」と声を掛けてきた。
「なんだ」と聞くと、これさ、と彼らは得意気に、しかし誰かの目を気にするように紙片をみせてきた。
それは新札に近い状態のアメリカドル紙幣だった。

色々なことを一瞬のうちに考え、私は3枚のUS100ドル札を100ペソ(三千円)で買った。
ウワサではアルゼンチンの警官は南米一問題がおおく賄賂を請求してくるのは当たり前と聞いていたし、後々中南米の問題ある警官に役立つときがやってくるのを察知していたからだ。
手に取ったアメリカ紙幣は本物よりほんの少し厚くできていたが、素人の私には偽物であることは判らなかった。
その場で太陽に透かしてみていたら子供たちに早くしまえと言われたのだった。

これで南米ツーリングの準備はすべて整った。
俺はやってやる、死なない程度に無事に走りきってやる。
そんな気持ちでブエノスアイレスを旅立つ日がやってきた。

上野山荘に宿泊していたほとんどのひとがバイクを停車していた有料駐車場に見送りしてくれた。
上野さん一家や、なかには女性で私を抱きしめてくれるひともいた。
髪の香りは花だった。もう帰国するまで花の香りを嗅ぐこともないだろう。


税関で苦労したブエノスアイレス空港を尻目に市内をあとにすると、風も強くなりあたりは殺伐とした風景に変わった。
パタゴニアはすぐそこだ。

あらゆる道端に、検問所が配置されていた。
そこには軍隊の格好をしたウワサの警官隊が十名前後、私を待ち構え、停止命令のたびにパスポートを請求されたのだった。
悪名高いアルゼンチン警官のウワサはこうだ。
パスポートを返してほしければ金をよこせ。
私はパスポートを請求されるたびにコピーを渡した。

しかし「これじゃダメだ、これじゃダメだ」と何度も言われた。
私はもうなにも怖くない。言葉が解らないフリをしてその場をしのごうとした。
いちいち問題児に金を渡すほど精神的に弱くない。

パスポートの原本を出さないでゴネていると検問所にいた警官がすべて集まってきて囲まれた。
なかには話の解るヤツ、つまり普通の警官もいるが、最終的に悪いやつに飲み込まれる。
コピーを検問所建物内に持って行き、30分ぐらいでてこない。私はその間、道端に待たされる。マテ茶を取り出し話のわかる警官にお湯をもらってそれを飲む。待てど暮らせど警官はでてこない。きっと建物内でマテ茶を飲んでいるのだろう。
太ったサングラスの警官が私に対し、なんだか不平不満をグチグチ言っている。なんとなく雰囲気で言ってることは解るが、言葉の解らないフリをしてスペイン語で理解不能の意味「ノーエンティエンドノーエンティエンド」と、睨み返しながら繰り返した。なめられるとつけこまれる。
幾度とない検問所の末、結局アルゼンチンで賄賂を使うことはなかった。
中米のとある国の警官だけに使用したわけだがアルゼンチンの警官も遠まわしでなかなかしつこい。

こんなこと書くべきじゃないかもしれない。
ネットで流れる他の旅記録にはこのような賄賂や人種差別などの汚い部分はあまり触れていない。
しかしこれは事実であり中南米の一部地域は行政の問題点を改善すべきだ。
法の番人が不正を起こす限りどんなに発展してもその国は途上国と呼ばれ続けるだろう。
これはその国に行った旅行者に無益を生むばかりでなく国民全体が荒む原因になる。
アルゼンチンの行政に不正がなければ南米一最高の国と呼びたいのを我慢して、アルゼンチンで出会った日本人のおかげで快適に旅が続けられるのだと思うと、感謝の気持ちはより増したのだった。



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パスポートをみせないでいると地面を蹴って不貞腐れる警官隊。
賄賂請求されそうになると毎度バチバチ写真を撮っていた。写真を撮ると引き下がるからね。
ちなみに写真の彼らは最初から賄賂請求してこず、パスポート原本をださないことに腹を立てている。

アルゼンチン税関

48.Aduana de Argentina

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バイク税関が、思いのほか手こずった。
オランダを発つとき空輸輸送業者に紹介してもらった通関代理業者に出向くと、また別のひとを紹介され戸惑いを隠せなかった。教えてもらった住所にいくと、オマールというひとが社長を務める輸入代行業者。オマール含め他の従業員も、ほぼスペイン語しか話せなかったので困った。名刺をもらうとオマールヌースケという少しアラビアっぽい名前だった。以後私は「おまーるの助」と時々よんだ。
彼はスペイン語の解らない私にパソコンで言いたいことを英語に変換して私にみせてくれた。英語の解らない私は、電子辞書で変換してその意味を理解した。ひとつの会話に数分を要した。面倒な状況だ。バイク通関にはニ,三日かかることを知らされ、うなだれていると、オマールは再びデスクのパソコンに向かい、スペイン語を英語に翻訳して見せた。オマールは私に「飯を食わせるのが、遠くからきた日本人への責任だ」といってくれた。私はその言葉に大変感激したのを覚えている。

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日本人がおおく集まる地区、在アルゼンチン日本大使館わきの日本食レストランにオマールの車で連れて行ってもらった。そこではスーパードライを飲み、カツどんを食って、みそ汁を味わった。お互いつたない英語でのコミュニケーションだったが、彼の優しさと心の広さがうかがえた。最終的に税関でも大幅な値引きに応じてくれて、私はみていたのだが保管料より安かったのでオマールは数万円の損をしたと思う。

さて、そんなオマールの車で、翌朝から空港の保税倉庫での手続きが始まった。
宿から歩いて20分のオマールの会社に朝7時半に到着し、8時に従業員が来るまでむかえの売店でパンを買ってオマールを待ち、ブエノス市街から空港までおよそ1時間の道のり。これが2週間つづいた。

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毎日毎日、保税倉庫に出向き手続きをおこなったが、そのたびに書類が足りないといわれ大いに手こずった。
そのころのオマールの口癖は「コンプリケート」だった。私はその意味が解らなくてコンプリート、つまりお役所は型にハマリすぎて融通が利かない、そんな意味だと思っていた。コンプリケートの正しい意味は「複雑で大変だ」という意味らしいが、オマールの口調からすると私の予想した意味合いのほうが近い。

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アルゼンチンはバイクの「 強制保険制度 」がある。
この強制保険は外国人が簡単に入れるシステムが整っていない。そのため私は、モロッコに輸入する際のアラビア語の輸入許可書を提出して、なんとか誤魔化そうとした。しかしあちらさんもプロなので見抜かれた。以後、私は検問でイチャモンをつけてくる警官にはこのアラビア一時輸入許可書を「国際保険書」と偽って提出したのだった。うまくいった試しはない。

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このバイク強制保険、日本人が入れる保険はブエノスアイレスになく、日系保険会社に聞いてもすべて断られた。
最終的にオマールに会う前日にオイルを購入するため立ち寄ったハーレーディーラーでバイクの強制保険に加入できたからよかったものの、外国人バイク旅行者向けの強制保険を是非作ってほしいと願うばかりだ。

とにかく毎日オマールとは顔を合わせた。そのたび「今日こそ!」と張り切り、バイクが受け取れないとそのつど私の機嫌は悪くなった。
またしても書類が足りないとか悩みの種は尽きず、なんだかんだと税関職員に言い訳をいわれ続けた。バイクを受け取れない細かな事情はなんとなくわかっていたが、上野イツコさんにもオマールに電話してもらい事情を聞いて頂いた。

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アルゼンチンの税関に関しては、大勢の人に大変お世話になったし、気分屋の私の機嫌につき合わせてしまったことを申し訳なく思っている。
怒っている自分がいて、その怒っている自分を自身がみつめ直すことは、とくに必死の場合難しいことだ。
いま思えば恥ずかしくもあり、また自分自身を振り返る上でワガママだったと、このときばかりは思うのであった。
どちらにせよ、上野山荘の人々とオマールと会社従業員マリアーノには大変感謝している。

なんとかバイクを受け取り、梱包をあけた。
久しぶりの我がバイクは風防が倒れこんでいて無理矢理箱に押し詰められていた。簡単に設営できるようにとのオランダハーレー屋の配慮で、ハンドルを取り付け、風防を取り付け、オイルをいれた。
で、ハンドルを取り付け、風防を取り付け、オイルをいれた。

エンジンを掛けると、ものすごい量の白煙が税関倉庫に立ち込めた。
すでにエンジンは限界がきていると思い込んだ私は落ち込んだ。

この白煙の話を上野山荘に宿泊していたヒロキさんに愚痴ると、ヒロキさんはこういった。
「とらちゃんのバイク、さみしかったんだろうね、、きっと会いたかったんだよ」

上野山荘で知り合った数名の友達は、いまだに友達としてお付き合いしてもらっている。

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久しぶりに風を切る。やっぱりバイク最高ジャン。
荷物の積まれていないバイクは軽快そのもの。
誰にだって話しかけたくなる気分で、空港からブエノスアイレス上野山荘まで遠回りをして戻っていったのであった。
いよいよ南米を走るときがやってきた。

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Foto:
BuenosAires Centro

アルゼンチン

47.BuenosAires de Argentina, Japones Hostal

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ブエノスアイレス空港に降り立つと、まったくもってこの街が合わないことに気がついた。
街並はボロ、人は異様に眼つきが悪く、まるで誰かに付け狙われているような、どん底の気分に陥った。
ヨーロッパと比較した時点で間違いだ。

9月の初日、南半球では晩冬を迎えていた。
バラックが目立ちドラム缶で焚火をおこしているブエノスアイレスの低所得者たち。
私はそれをみただけで危険を感じた。いままで大国ロシアを通過していたから南米なんて余裕、そんな気持ちはすぐさま消えた。
日本の治安と比べるのが間違いだ。
とにかく私は、この『こわい』という感情をどうにか早く打ち消したかった。

空港から直でむかったのは宿だった。
バイクの税関に相当時間を要するのは目に見えていたし、ブエノスアイレスを発ったらハードなキャンプ生活が待っている。ドラム缶に集うブエノスアイレスの住民もみていたし、テントでの長期滞在は無理と察し、すぐさま宿へとむかったのだった。
宿は上野山荘別館だ。事前にも問い合わせをしていたのでドミトリのベッドを確保して頂いた。
この宿は名前の通り日本人が経営するブエノスアイレス屈指の居心地空間だ。
オーナーは上野イツコさん。イツコさんの母上は世界最南端で同じように日本人宿を経営している宿のベテランだ。

日本を発って初の大勢の日本人に囲まれ、気分も晴れ渡った。
大勢のひとが宿泊していて、気の合いそうな人も数名いた。数名というか、この宿は全体的に家族のようなホンワカとした雰囲気だったからとにかく居心地は最高だった。

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女性の宿泊客も大勢いて、私は日本を出発してから女性と話す機会が皆無だったものだから進んで毎日女性と話していたのだが、その様子を目ざとくみつけてくださった宿のオーナー上野イツコさんが「とらさんてイタリア人みたいね」と言われてしまったほどだった。

日本人宿、最高ジャン。
私は上野山荘に気を良くし、南米では日本人宿を探し回ることになった。が、上野山荘ほど良いところはなかった。旅人用語で沈没といい、同じ宿に長期滞在するバックパッカが多い日本人宿は私には合わず、せいぜい一泊しただけで足を洗って以後さがすこともなくなった。気の合わなかった旅行者からすればきっと私はヘンクツだったに違いない。そのことを考えると二週間も滞在させてくれ、みんなが居心地よく過ごせるため尽力してくださっている上野イツコさん、旦那さんのルイスさん、娘さんのルーシーさんの上野一家はとても素晴らしい人たちだとおもう。この上野山荘のことを陰ではブエノ山荘と呼ぶ人もいるぐらいである。ブエノとはスペイン語で良いという意味になる。
宿泊客とサッカー観戦をしたり、飯を食いにいったり、タンゴを見にいったり、普通の観光を楽しんだ。そのあいだもずっと上野イツコさんと旦那さん、それに娘のルーシさんがとても良くしてくれた。バイクの税関についても電話でのスペイン語でご協力いただいた。

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サッカーといえば、アルゼンチンは本場である。私は元々サッカーはキャプテン翼で卒業式を迎えていたが、せっかくなのでワールドカップ南米予選のチケットを深夜にブエノスアイレス郊外まで並んでまで買いに行ったこともあった。
プロ三部リーグを見にいったときには、隠れて地元サポーターをカメラで撮影してとっても怖い目にあった。最後の最後まで追い掛け回されたことを覚えている。

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怖かった。一緒に行った上野山荘の宿泊客に「あいつらが怒るのも当然だよ」と、巻き込んでしまったことを申し訳なく思いながら、試合がおわるまえにみんなで早足で駅まで逃げたのだった。不良たちに追いかけられたので、ちかくに立っていた中年の軍隊に話しかけたら敬礼されたのを覚えている。このころ私は軍隊の帽子を被りヒゲはモサモサだった。

『南米こわい』を打ち消したかった私は、ちょうどそのころおこなわれていた世界タンゴ大会に度胸試しのつもりで行ってみた。入場チケットはブエノスアイレス市が発行するため旅行者はチケットが手に入りづらい。チケットがないなかでの警備強行突破は度胸試しにちょうど良かった。その度胸試しもサッカー三部リーグで散々な目にあった同じ日本人を連れて行ったのだった。大変迷惑をかけた。きっと強行突破するひとも大勢いるのだろう、警備に呼び止められることはなかった。肝心な世界タンゴ大会といえば、踊りはまったく覚えていない。

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南米はなんでも法がゆるいので大した試しにならず、では違う度胸試しをしようと、ボリビア人が市内で暴動を起こしているところに出向いた。100名以上のボリビア人が、それぞれに武器を持ち、暴れる寸前のそんなボリビア人に「どうしてそんなに暴れるのがすきなんだ」と聞いたことがあった。我ながらバカである。
ヘタをすれば巻き込まれていた可能性もある。しかし私はそれなりのリスクを負わなければ心の闇やマイナスは取れないと思っていた。私は、南米で命を落としたくはなかったけれど、落としても仕方ないと、正直そんなことばかり考えていた。その考えを、行動で改めたかったのである。

敏感なひとにはブエノスアイレスの雰囲気が、果てはアルゼンチン全土が、バイクを走らせる土地でないことがすぐにわかると思う。
ただし、それも雰囲気というだけで、なんの根拠もないのだけど。
結果をいえばアルゼンチンは南米一ツーリングに適した国だ。

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ブエノスアイレスに到着して、あっという間に一週間が経った。
盗難や通関や輸送や事故や燃料や故障の付きまとうバイクに囚われず、楽しいことや観光地に目を向けられる普通の旅行を
心の底から楽しいと思えた。
しかし、どうしてもバイクで走りたい気持ちは当たり前だけど抜けなかった。
税関の保税倉庫には、何度も足を運ぶことになる。

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写真はワールドカップ南米予選アルゼンチン対パラグアイで知り合ったアミーゴたち

プロフィール

Author:masatorakun
皆様、こんにちは。
大型バイクのハーレーダビッドソンで世界一周したときの日記を再現しました。
楽しんでいただけると嬉しいです。

*写真転用コピ等禁止予めご了承ください。

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